YouTubeを開くと、ピンクのウィッグに鼻の絆創膏を貼った若い女の子が、早口のマシンガントークで時事ネタをぶった斬っている。
「悪の秘密ぼっち『ヘライザー総統』」の動画だ。
まず白状しなければならない。
いい歳をした昭和生まれのオッサンが、娘のような年齢の女の子の動画を定期的にチェックし、「最近の彼女は……」などと見守っている構図そのものが、傍から見れば十分に気色悪いし、ダサい。
心のどこかに「小娘のくせに、政治や時事を語るのか」という、古臭い年長者特有の傲慢さや見下しが微塵もなかったかと言われれば、正直に言って嘘になる。説教したがるオッサンというのは、本当に始末に負えない。
だが、そうした自分の気色悪さを重々自重した上で、それでもなお彼女の動画を見入ってしまうのは、そこにある圧倒的なギャップに対する「純粋な知的好奇心と敬意」があるからだ。
「小娘」と侮れないリサーチ力と、現場不在の限界
初期の彼女は、芸能人のスキャンダルやYouTuber同士の炎上を面白おかしくイジる、いわばライトな毒舌エンタメだった。
だが、ここ最近の動画の進化は、オッサン目線で見ても思わず唸ってしまうほど「秀逸」なのだ。
同世代の若い女性なら、もっとキラキラした日常やファッション、コスメを扱えばいいものを、彼女が斬り込んでいるのは国政、安全保障、利権、メディアの欺瞞といった、オッサンたちですら敬遠しがちな泥臭く重たいテーマばかりだ。
しかも、それが思いつきの放言ではない。背景を徹底的に調べ上げ、構造を理解した上で、恐ろしい熱量とテンポで言葉を叩きつけてくる。自ら「間違っていたら訂正するし謝罪する」と明言するなど、発信者としての覚悟や配慮すら身につけてきた。その裏にある膨大なリサーチと覚悟は、「小娘」などと決して見下せるものではない。純粋に、一人の表現者としてリスペクトせざるを得ないのだ。
しかし――だからこそ、オッサンの胸には小さな「もどかしさ」も湧き上がってしまう。
世の中のメディア構造を眺めてみると、一次取材、つまり現場に足を運び、泥臭く汗をかいて一次情報を引っ張ってくるのは、どうしてもリベラル寄りと言われる大手新聞やテレビが中心だ。保守系の新聞やテレビは数が少ない。
そして、その「新聞やテレビが現場から取ってきた情報」をネット上に広げ、ツッコミを入れたり分析したりするのが、ネットの保守系の役割分担になっている側面がある。
つまり彼女もまた、現場の匂いや当事者の息遣いに直接触れて取材する記者ではなく、ネット上の言説や報道を集約して語る、いわば「コタツ記事」の延長線上にいる。
現場を知らないなりに部屋の中で情報を掘り起こす努力は素晴らしいが、彼女が分析のベースにしている記事や映像自体が、すでに「誰かが特定の意図を持って切り取り、編集した後の影」にすぎない。その前後にどんな文脈や生身のやり取りがあったのか、現場を踏んでいない人間には完全には把握できないのだ。
それにもかかわらず、誰かが編集した情報をもとにして、安全圏から相手を吊るし上げ、「謝罪しろ」と追い詰めてしまう危うさがある。
本人は悪の組織の道化(プロレス)として振る舞い、「正義」を名乗っているわけではない。しかし動画の質が上がり発信力が増したことで、見ている側にとってはそれがまるで「悪を成敗する絶対の正しさ」のように消費されてしまうのだ。
歴史の時間軸と、「折り合い」のつかなさ
仮に相手が誤りを認めて頭を下げたとして、本当にそこで終わるのだろうか?
ネットの現実はそう甘くない。今度は「謝り方に反省が見られない」「保身のための謝罪だ」とゴールポストが動き、次の攻撃の燃料にされるだけだ。
「自分たちは正しく、あいつらは愚かで間違っている」という単純な敵味方の構図。
これは社会に決定的な「分断」を生む。そして分断の本当に恐ろしいところは、「その対立構造が、誰かに都合よく利用されてしまう強さを持っている」点にある。
人間誰しも、問題ごとに考え方は違うはずだ。国防を強化すべきと考えつつも隣国との文化交流は大切にしたい人もいるし、自民党だって一枚岩ではなく、多様な立場の人間が同居する包括政党だ。人間をたった2色に塗り分けること自体が、現実を無視した乱暴なフィクションなのだ。
歴史を深く紐解けば、ひとつの出来事には常に複数の視点が存在する。古代のヤマト王権側の視点もあれば、討伐される側とされた地方豪族の側の視点や誇りもある。
それぞれの土地に生きる人々の矜持があり、血の滲むような対立と葛藤があった。それでも先人たちは、何百年という長い歳月をかけて、互いに折り合いをつけ、敗者の御霊をも祀り、文化を融合させながら、緩やかにこの国を形作ってきた。
歴史という長い時間軸を知れば知るほど、「いま、この瞬間の白黒」だけで相手を一刀両断にして叩き潰すことの浅薄さに気づかされる。
映画『空白』の中で、理不尽に娘を奪われ、関係者を徹底的に追い詰めて暴走した父親(古田新太)が、すべてを失った果てにぽつりと漏らすセリフがある。
「みんなどうやって折り合いつけてるんだろうな」
さだまさしさんの名曲『償い』もそうだ。
人間は優しい。守りたいものの内側にはどこまでも優しくなれるが、その外側に対しては時に残酷になれる。
被害を受けた側が加害者の謝罪を拒絶するとき、外野は「いつまでも頑なだ」などと無責任に言うが、そうではない。被害の事実そのものを心がまだ受け止め切れていなかったり、許すことで奪われたものの重みが軽くなってしまう恐怖と闘っていたりする。送られ続けたお金に対し、遺族が返した手紙の真意なんて、本人以外の誰にも測れない不可侵の領域なのだ。
裁判所や弁護士といった仲介者が入ったとしても、法が裁けるのは形式的な責任や賠償だけで、生身の人間の「心の整理」まではどうにもならない。
当事者同士ですら答えの出ない問題に対して、安全圏にいるメディアやコメンテーター、ネットの配信者が、外から「あいつの謝罪は甘い」「心が狭い」などと採点(ジャッジ)することほど、傲慢でナンセンスなことはない。
世の中の出来事は、簡単には割り切れない。
だからこそ、成熟した大人ほど「どう折り合いをつけるか」に腐心し、悩み続けるのだ。
批判の対象にこそ「敬意」を
ヘライザーさんの動画が本当に面白いし、才能があると思うからこそ、オッサンは願ってしまう。
「現場を踏んでいない限界を自覚し、批判する対象への敬意を、もう少しだけ持ってほしい」と。
相手を単なるピエロや悪者として記号化し、嘲笑して溜飲を下げるスタイルは、短期的には数字が取れても、分断の道具として消費されて終わってしまう。
もし彼女が、その類稀なリサーチ力を活かしつつ、
「相手の立場や背景にも一理ある」
「だからこそ、この問題は簡単に白黒つけられず、どう折り合いをつけるかが難しい」
という「複眼の視点」と「対象への敬意」を言葉の端々に滲ませることができたなら。
それは安易な二項対立に辟易しているサイレントマジョリティの心をも掴み、単なる物申す系エンタメを超えた、息の長い本物のオピニオンへと昇華するはずだ。
……と、ここまで偉そうに書いてきて、また自分のみっともなさに苦笑いしてしまう。
「折り合いが大切だ」「相手に敬意を持て」などと達観したような顔をして、結局のところ自分自身も、こうしてブログの片隅に長々と愚痴を書き連ねているだけの、矛盾だらけのちっぽけなオッサンにすぎないのだから。
結論なんて、最初からあるようでない。
悩みながら判断し、判断したあとも悩み続ける。
画面の向こうで毒舌を振るうヘライザーさんも、「正義」を背負うつもりなど毛頭なく、ただ必死にカメラに向き合っているはずだ。そして実は裏側では、自分の発信が持つ影響力や言葉の重さに、人知れず悩み、迷いながら折り合いをつけている最中なのかもしれない。
オッサンはそう信じたいし、だからこそ今日もまた、自分のダサさを棚に上げて、彼女の動画を再生してしまうのだ。