最近、TikTokやYouTubeでおすすめに流れてくる千原せいじさん。どこか寛容で、良いことを語っているような雰囲気を感じていました。しかし、ある市議会議員との対談動画で見たのは、そんな姿とは全く違う、感情的で余裕のない姿。
なぜ、ある場面では「いい人」に見えるのに、別の場面ではそうではないのか。多くの人が感じるかもしれないその強烈な違和感と、私が個人的に抱いた「気持ち悪さ」の正体について、掘り下げて考えてみたいと思います。
きっかけは市議との対談動画
ことの発端は、ある市議会議員の方と外国人問題について語る対談動画でした。社会的に重要なテーマであり、どのような議論が交わされるのかと興味を持って視聴を始めましたが、すぐに異様な空気を感じ取りました。
対等な立場であるはずの対談相手に対し、千原せいじさんは冒頭からどこか見下したような、試すような態度で接していました。それは建設的な議論というより、一方的な「からみ」やマウントを取ろうとしているように見え、視聴者として期待していたものとは全く違う方向へと進んでいきました。
議論を逸脱した「いじめられっ子」発言
動画の雰囲気はエスカレートしていき、ついに耳を疑うような言葉が飛び出します。議論が白熱する中で、千原せいじさんが相手に対して言い放った「いじめられっ子」という発言です。
これは単なる失言や、ついカッとなって出た暴言というレベルではありません。テーマに関する意見の対立ではなく、相手の人間性そのものを貶める個人攻撃です。このような言葉が飛び出した瞬間、対話の可能性は完全に破壊されてしまいます。どんな理由があっても、議論の場で相手の人格を否定する言葉を使っていいはずがありません。
SNSの自分と、動画の中の自分
私が特に強い違和感を覚えたのは、この動画で見せた姿と、普段SNSなどで見せる姿とのギャップです。TikTokなどでは、若者の相談に優しく乗ったり、多様性を受け入れるような寛容な人物として映っています。
しかし、ひとたび自分の意に沿わない相手を前にすると、その余裕は消え去り、感情的な姿が露わになる。そう感じました。そして、「余裕がなくなった時に見える姿こそが、その人の本質なのではないか」という考えが頭をよぎりました。
また、「ネットで書き込みするやつはアホ」という趣旨の発言も、大きな矛盾です。彼自身が発信するYouTubeやSNSは、まさにその「ネットの書き込みをする」視聴者によって支えられています。その人々を軽んじる発言は、自身の活動の土台を自ら否定する行為に他なりません。
僧侶になった彼に「悟り」はあったのか
彼のプロフィールを調べると、出家して僧侶になっているという事実に行き当たります。
しかし、動画で見せた姿は、その肩書とはあまりにもかけ離れています。感情をコントロールできず、相手を蔑む言葉で攻撃する。その姿からは、心を静め、他者を思いやる仏の教えや「悟り」といったものは、残念ながら感じ取ることができませんでした。もちろん、僧侶も一人の人間です。ですが、その肩書と実際の行動が大きく乖離していることが、視聴者の不信感や、ある種の失望を増幅させているのではないでしょうか。
まとめ:私が感じた「気持ち悪さ」の正体
今回の一件で私が感じた、えも言われぬ「気持ち悪さ」。その正体は、おそらく「一貫性のなさ」と「不誠実さ」なのだと思います。
場面によってキャラクターを使い分けるかのような態度のブレ。SNSで見せる寛容な姿と、対談で見せた攻撃的な姿のギャップ。議論におけるフェアではない態度。そして、僧侶という肩書と矛盾した言動。
これら全てが合わさった時に生まれる「人間的な信頼のできなさ」こそが、私が感じた違和感の正体なのでしょう。それは、彼の政治的な意見に賛成か反対かという次元の話ではなく、一人の人間としての対話の姿勢そのものに対する、根源的な疑問なのだと思います。