なぜ「優しさ」が100匹の命を奪ったのか?
最近、熊本で発覚した、およそ100匹の猫の死骸が発見されたっていう悲しいニュース。多くの方が胸が締め付けられたとお思う。本当に残念な出来事だ。
しかしながら、このことを冷静になって考えてみると、もっと本質的な、構造的な問題が根っこにあるんじゃないかと考えが至った。自分なりの考えを共有するのでみんさんの考えも聞かせてほしい。
まだ詳細がわからないので、誰が悪いとか特定の誰かを批判することは目的としていないので、そこはよろしくお願いしたい。
誰の責任なのか?
今回の事件で、猫たちの命を預かっていた女性が責任者であるのは間違い。でもでも、彼女が最初からそういう無責任の人だったとは限らない。
仮定の話だけど、彼女が動物を愛する善意の人だとしたら、その優しさゆえに、その女性の経済的、人間的キャパシティーを溢れてしまったのかと思う。
眼の前の命を救っていたら、気づけば自分の体力、時間、お金、それに心の限界をはるかに超えちゃって、孤立した中で全部が崩壊しちゃった……そんな可能性もありえると思うんですよね。(実際のことはわからないけど)
『置き去り』という無責任の影 ~預ける側の問題~
だからさ、この悲劇は、決して一人の人間だけの責任にできるものじゃないって感じるんです。別にこの女性が誰かに攻撃されているとか、いい人なんだとか、そういう評価じゃなくて、預けたひと全員が被害者っぽい感じで報道されている気がしていて、そこに違和感があるんですよ。
預け方には様々なパターンがあると思いますが、そうだね、これは預かってもらうしかないよねって多くの人が納得できパターンってどのくらいあるんだろう。
そもそも、一人で100頭以上あずからないと行けない状況ってどういうことなんでしょうか?
本来、飼い主にはその命を最後まで見届ける重い責任があるんだよね。だけど、安易に飼い育を放棄したり、他人に責任を押し付けちゃったりする行為は、命を軽視してる意識の表れなんじゃないかな。もし、この悲劇の裏に、そういう無責任な行為が多数含まれてたとしたら、それは今回の事件をさらに深刻にした要因の一つだし、預けた側にも責任の一部があるって言えるはずだよね。
そして『優しい未来』へ、いざ!
今回の熊本での猫たちの悲劇は、私たち人間の社会が、動物たちとどう共生していくべきか、そして私たち自身の命への向き合い方を、改めて問いかけているのかもしれないね。
この痛ましい出来事を無駄にしないために、私たちは何ができるのか、考え続ける必要があると思うんだ。個人の善意だけに頼るんじゃなくて、社会全体で動物たちの命を守る仕組みを、みんなで協力して作っていけたら嬉しいな。